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語る 人生の贈りもの 放送作家・高田文夫(上) 《ニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」のパーソナリティーを37年間続ける》 「現場に出て人と話し、見て聞いたことをスタジオで報告する。それがラジオの作家の仕事」。放送作家の大先輩・永六輔が教えてくれた言葉を守って、いろんな所に出掛けてるよ。こいつが面白いとか、葬式に行ってきたとか、生活の知恵とか、東京の人間の暮らしが伝わる現代の長屋みたいな雰囲気を、帯番組で作ろうとしてる。 大学時代に読んだ、永さんの「芸人 その世界」って本が面白くてさ。落語家とかのエピソードが愛情たっぷりに書かれてる。俺が40過ぎた頃からラジオをやって大衆芸能史の本を書いてるのは、永さんのスタイルをなぞってるんだな。根っこにあるのはユーモアへの関心。ユーモアってヒューマンにつながる。つまり人が好きなんだよ。 「オレたちひょうきん族」などのヒット番組の放送作家、ラジオパーソナリティ、大衆芸能の記録者……と多彩に活躍する高田文夫さんが半生を振り返ります。6、7月に文化面で連載した「語る 人生の贈りもの」を加筆、再構成し3回に分けて配信。初回は学生時代の思い出などを語ります。第2回は9日に配信します。 《今テレビとは距離を置く》 番組の台本を書く放送作家としてテレビに育ててもらったんだけど、ここ30年テレビの仕事はほとんど断ってる。表に出るのは、ラジオや呼ばれて行く舞台のトークくらい。「ビートたけしのオールナイトニッポン」「オレたちひょうきん族」なんかの仕事をしてた30代や40代はよくテレビに出てたから、どこに行くにも騒がれた。有名人は3カ月あれば作れるけど、普通の人の生活に戻るには30年かかる。今は飲み屋もふらっと入れるし電車にも乗れる。楽だよ。 永さんや青島幸男が作った放送作家という仕事を受け継いで、世間に知らしめることはできたんじゃないかな。俺が他の人より優れているのは笑いの反射神経。それが生放送に向いてた。笑いっていうのはしゃべった瞬間にはじけて消える。テレビ放送が始まったばかりの小学生時代にそれが美しいと思った。刹那(せつな)だね。そこからずっと面白いことを考えてきた。野球の相手チームがアイドルに転身 生まれは渋谷、NHKの向かい側の富ケ谷だ。5人きょうだいの末っ子。浅草生まれの親父(おやじ)は近代史の本を出版する会社をやってて、チャキチャキなお袋は渋谷の鳶(とび)の頭の娘。俺は下町の文化と山の手の粋が合体したみたいなもんだよな。どんなDNAなんだ。 親父が、仲が良かった文士の丹羽文雄と一緒に銀座で飲んでる時に生まれたから、文雄と名付けられた。大人になって、シンメトリーがいいってんで勝手に文夫を名乗るようになった。 お袋は初代ミス渋谷だと当人が言ってた。六大学のオリンピック選手とかにしょっちゅう口説かれたみたいだけど、みんな出征しちゃって、国から頼まれた歴史の仕事をやって戦争に行かなかった親父とどさくさに紛れて結婚した。母親は「だまされた」ってよくグチってたよ。 《少年時代は野球好き》 悪ガキ連中で野球チームを作ってた。ノックしてくれたお兄さんは渋谷を仕切ってた最強の愚連隊・安藤組の花形敬。世田谷の旧家の息子で男前だった。 1959年6月25日の長嶋(茂雄)の天覧試合は、俺の11歳の誕生日だった。お袋は酒飲んで寝ちゃってるし、きょうだいも帰ってこなくて、ぽつんとテレビ見てた。そんな中、出たサヨナラホームラン。誰にも祝ってもらえない自分への、最高のバースデープレゼントだったよ。そんな試合にやっぱり興奮してたのが、俺と同じ48年6月25日生まれのジュリー(沢田研二)。 あおい輝彦たちがいた野球チームとも戦った。それが渋谷のワシントンハイツに住んでいたジャニー喜多川が率いる「ジャニーズ」。花形さんに「ジャニーズなんかやっつけろ」とか言われるんだけど、俺たちは3戦全敗。なにしろ強い。 ある日雨でジャニーズとの試合が中止になって、俺たちは東宝の社長シリーズを見に映画館に行った。森繁(久弥)がいいとか(三木)のり平は名優だとか言い合ってたその時、連中は「ウエスト・サイド物語」を見に行ってた。そこで野球じゃなくてこれからはダンスだ、歌だと目覚めるんだ。翌年テレビつけたら野球チームの名前でNHKに出てた。衝撃的だったね。「またお前か!」森繁邸の庭で 《5歳の頃、生まれ育った東京・渋谷から小田急線の千歳船橋に引っ越した》 渋谷もどんどんビルが建って、親が「もっと自然な方がいい」ってことで。石原裕次郎や黒澤明が越してきてからは2駅先の成城学園前が高級住宅街になったけど、当時は千歳船橋の方がビバリーヒルズみたいなもんだったんだ。近所には森繁久弥や清川虹子の家があった。 森繁のうちはでっかい芝生の庭があってさ、ヨットが置いてあるんだよ。よく忍び込んでヨットによじのぼったり、庭になってる柿を勝手に食べたりしてた。見つかって「またお前か!」って何回も怒られた。今思うと、あれは悪ガキへのサービスだったんだろうな。ちょうどその頃、森繁は東宝の社長シリーズが当たった頃だった。映画に出てくる森繁の演じる社長ってのが、うちの親父(おやじ)そっくりなんだ。 親父はダブルのスーツ着て若い衆を2、3人連れてさ。経営してる出版社がうまくいって、2号さん3号さんもいてめったに家に帰ってこない。時代が許したんだろうね。よくお袋に頼まれて、親父に給料をもらいに行ったよ。電話すると運転手が来て、新橋とか神楽坂とかのお座敷に連れてかれた。きれいな芸者さんに「坊ちゃん、坊ちゃん」言われて高級品のバナナ食べたり、小学生にしてお座敷遊びよ。そうこうしているうちに親父が「これ、お母さんに持ってって」とか言って茶封筒に分厚い万札入れて渡してくる。 《母親との思い出はラジオ》 ガキの頃ラジオは寄席中継とか浪曲とか歌謡曲ばっかりで、お袋とよく聞いてたね。子どもだからどんどん覚えちゃうんだ。落語なんか10席20席、そらでしゃべれるようになってた。 そのうち1953年になったらテレビが始まった。俺たち団塊の世代は本当のテレビ第一世代。そして俺にとって、野球の長嶋(茂雄)に続く、憧れのテレビ界のスーパースターが出てきた。■何をしても一流、青島になり…






