インタビュー被害と加害の街で語り続ける 平和は飛んで逃げる、手を離さないで聞き手・興野優平印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする

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「ヒロシマで生かされて」 語る 人生の贈りもの 被爆体験証言者・切明千枝子さん(3) 《1945年の秋ごろ、髪の毛が大量に抜けるようになった。放射線の影響だった》 あのころは、まず髪の毛が抜けると言われていました。その次に歯茎から血が出て、体に紫色の斑点が出る。血便が出たらもう助からないと。なので、女の子たちはみんな朝起きたら、髪をとかしながら引っ張ってみるんです。抜けなかったら「ああ、今日は大丈夫」と思う。 私もある日、いつものように髪の毛を引っ張ったら、ずるっと抜けた。とっさに「ああ、これで楽になる」と思ったの。私たち第二県女(広島県立広島第二高等女学校)の4年生は多くが助かったけれど、下級生は何人も亡くなった。自分だけ助かったことが本当に申し訳なくて。そのうち歯茎からも血が出ました。体は回復したけれど、この後ろめたさは一生消えませんね。被爆体験証言者の切明千枝子さんが半生を語る「ヒロシマで生かされて」。全3回連載の3回目です。(2026年7、8月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を加筆・再構成しています)【初回はこちら】「バンザイ」響く街で幼い私は生きていた 被爆者が語る「軍都」広島【第2回はこちら】校庭で友達を焼いた8月6日 祖母は「アメリカが憎い」と泣き続けた 《被爆から1年後の1946年8月6日、2年西組が作業に当たっていた市役所裏側(雑魚場町・現国泰寺町)で、木柱の碑を建てて慰霊祭が行われた》 子どもを亡くしたお父さんやお母さんの、あの射るような目は忘れられません。私たちが慰霊祭に行くと、黙ってご覧になる。言葉ではおっしゃらないんだけど「うちの子は死んじゃったのに、なんであんたは生きているのよ」って言われている気がしてね。あの時一緒に死んでいればどんなに楽だろうなんて思いました。毎年、慰霊祭の時間にはよう行きませんでしたよ。だから朝早くにお参りしたり、日が暮れてから行ったりね。 いまの慰霊碑には「殉国学徒之碑」とある。建てたとき、この碑文で一悶着(ひともんちゃく)ありました。同窓生は「国に殺されたんだ」と反対する。でもお父さんやお母さんは「お国のために死んだと思わないと身が持たん。犬死にをしたと思いたくない」と。結局、お金を出すのはご両親。同窓生は沈黙するのみでした。 《戦後まもなくバイオリン奏者・諏訪根自子の演奏を聴いた》 生きる気力もなんにも失って、ぼーっとしてた時期がありましてね。たまたま諏訪さんの演奏会に行って、こんなに美しい音楽があったのか、と。ピアノの伴奏も何もなしでバイオリン一丁だった記憶があります。もうちょっと生きてみようという気になりました。勇気、希望をくれたんです。なんせそれまで聴いていたのは「いざ来いニミッツ、マッカーサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし」なんていう軍歌ばかりでしたから。親恋しく、泣く孤児の手握って 《1946年3月に広島県立広島第二高等女学校を卒業。医者を志して大阪女子高等医学専門学校に入るが》 やけどに天ぷら油を塗ること…この記事は有料記事です。残り4729文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりません