インタビュー聞き手・興野優平印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする
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「ヒロシマで生かされて」語る 人生の贈りもの 被爆体験証言者・切明千枝子さん(2) 《8月6日、快晴だった》 連日の立ち仕事で足を痛めてしまったので、毎週月曜日に病院へ行っていました。この日も工場で朝礼をすまして、先生に許可をもらって出ました。比治山橋という、大きな川にかかる橋のたもとまで来たんです。被爆体験証言者の切明千枝子さんが半生を語る「ヒロシマで生かされて」。全3回連載の2回目です。3回目は8月7日に配信予定です。(2026年7、8月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を加筆・再構成しています)【初回はこちら】「バンザイ」響く街で幼い私は生きていた 被爆者が語る「軍都」広島足を休めに陰へ……瞬間ピカッ あの日は朝からかんかん照りの暑い日でね。汗びっしょりになるし、足も痛い。で、またこの橋が長いんですよ。どこかで汗を拭いて、足をちょっと休めないとこの橋は渡れないわ、と思っていたら、木造の倉庫みたいな建物があった。そこの軒が低くて、ちょっと日陰があったんですよね。 その建物の陰に入った瞬間、ピカッと光りました。お日様が落ちたみたいでした。1テンポおいて倉庫が倒れかかってきた。目の前は真っ暗。何が何だかわけがわからない。 必死になってはい出す。すると、橋の向こうからたくさんの人が叫びながら逃げてくるの。中学校の下級生くらいに見える男の子たちでした。もう着ている制服がぼうぼう燃えている。 川の向こうは火の海。引き返そうにも、倒れた家で道路は通れない。路面電車の架線が切れて落ちている。倒れた家の屋根をはいながら、15分歩いただけのところをたばこ工場まで戻るのに30~40分かかりましたね。 《爆心地から1・9キロの場所で被爆。爆心地から1・2キロ以内にいた人たちのほぼ半数がその日のうちに死亡したという》 あの時、もしそのまま橋を渡っていたら、助かっていなかった。だいぶ後になって、同じ比治山橋の上で被爆された17歳のお嬢さんのブラウスを原爆資料館で見ましてね。ご遺族のコメントが紹介されていました。大やけどを負って亡くなったそうです。何が生死を分けるかわかりませんね。 たばこ工場では機械に挟まれて逃げ遅れた生徒と一緒になりました。その後、第二県女(広島県立広島第二高等女学校)で見たのが本当の地獄でございましたよ。皮膚を引きずり、戻った下級生 《原爆投下後、広島県立広島第二高等女学校にたどり着く。校舎は半壊していたが、焼けてはいなかった。そこへ、爆心地近くで屋外作業に動員された下級生たちが戻り始めた》 かわいそうだったのは下級生でね。髪の毛はもうぼろぼろ。着ている服は全部焼けて裸。全身やけどで、水ぶくれ。ちょっとした刺激でそれが潰れて、ペロンと皮膚がむけるんです。でも爪で止まるから、真っ黒い昆布かわかめのように皮膚が指先からぶら下がっている。 あの頃、もんぺといって野良着のズボンのようなものをみんなはかされていたんです。そのもんぺも焼けて、皮膚がやけどでむけちゃう。でも、もんぺは足首を太い輪ゴムできゅっと締めているから、その輪ゴムだけ焼け残るわけですよ。そこでむけた皮膚が止まる。それをずるずる引きずってきたの。 そんな生徒の皮膚を先生が手…この記事は有料記事です。残り3728文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人興野優平文化部|「折々のことば」担当専門・関心分野戦争、核をめぐる問題など関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアするXでシェアするはてなブックマークでシェアする






