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「ヒロシマで生かされて」 語る 人生の贈りもの 被爆体験証言者・切明千枝子さん(1) 広島の街並みは、いまはもうすっかり変わりましたね。かつて、こんな短歌を詠みました。 〈ひとたびは焼け滅びたる街を埋めビルの群れ建つ墓標かと思ふ〉 高い所から見下ろしたビルが私にはお墓に見えたんです。被爆体験証言者の切明千枝子さんが半生を語る「ヒロシマで生かされて」。全3回連載の初回です。2回目は8月6日、3回目は8月7日に配信予定です。(2026年7、8月に「語る 人生の贈りもの」として掲載した記事を加筆・再構成しています) 《1945年8月6日、米軍が広島に原子爆弾を落とした。その年の暮れまでに約14万人が亡くなったと推計されている》 広島には平和記念公園があるでしょう。あそこは原爆が落とされる前は広島有数の繁華街。大きな旅館や映画館があっという間に壊滅したんです。 でも、それを片付ける力は戦後の広島にはなかったんです。だからね、ご遺骨も拾いきれないまま、瓦礫(がれき)の上に土を盛って、木を植えて公園にしちゃったの。私はいつも「あれは戦争公園だ」と思っておりますよ。 《平和記念公園の造成工事では遺骨が多数出土。近年も焼失した民家跡などが見つかった》 公園を歩く時には、心の中で「ごめんね、踏んづけてごめんね」って謝りながら歩きます。平和公園ばかりではありませんよ。広島の街中、穴を掘っちゃご遺体を埋めていました。火葬にできなかったご遺体も多かったから、戦後しばらくは夜に雨が降ると、火の玉がぽわぽわっと飛んだんですよ。いまはもう飛ばなくなって、みんなあの惨禍を忘れておりますがね。 だからといって、なかったことにされてはたまらないぞという気持ちがあります。また戦争をしない保証はどこにもない。 《15歳で被爆した。96歳のいまも被爆体験を語り続ける》 今日のことは今日忘れるへろへろ婆(ばあ)でございますがね。原爆のことは忘れてしまいたいと思えば思うほど、はっきりと思い出すんですよ。やっぱり忘れてはいけないことなんだと気づくのに長い時間がかかりました。市民自慢の軍都、ハイカラ祖父母 戦前の広島は、とにかく陸軍が大きな力を持った街でした。「軍都広島」が市民の自慢だったんですよ。陸軍の糧秣(りょうまつ)支廠(ししょう)(糧食の補給拠点)、兵器支廠(兵器の保管・補給拠点)、被服支廠(軍服などの工場)やその下請け企業もたくさんありました。戦争で発展したことが、原爆で狙われる一つの種になったという気がしております。 《1929年、広島市で生まれた。旧姓は「煙井(たばい)」》 父母、妹3人、父方の祖父母との8人暮らし。沿岸部の宇品に造船所があって、父はそこに勤めていました。 祖父母はハワイへ働きに出て…






