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16世紀、現在の京都市東山区に豊臣秀吉が発案し、その右腕と言われた弟・秀長が指揮をとって建立された大仏があった。奈良・東大寺の大仏(約15メートル)より大きく、当時、日本最大だったこの大仏が、実は10カ月ほどの期間で造られていたと、京都女子大学講師の萩原大輔さんが古文書を調査し、明らかにした。 「東山大仏」は松永久秀の焼き打ちで焼失した東大寺(奈良)の大仏を凌駕(りょうが)するものとして発案され、1588年5月から京都の三十三間堂の北側で造営が始まったとされる。1596年5月ごろまでには大仏殿も完成していたとみられる。しかし、同年閏(うるう)7月に起きた地震で大仏は損壊。修復されないまま解体された。 萩原さんが秀吉の出した朱印状や活字化されていない「新大仏殿地鎮自記」などを調べたところ、秀長は、大仏殿の基壇の基礎工事が終わった1カ月後の1588年6月には奈良から仏師を呼び集めて上洛(じょうらく)し、さらには秀吉の命令で、九州から日本人や中国人の漆喰(しっくい)塗り職人を呼び集めて大仏の造立にあたらせていたことがわかった。 さらに、1588年9月付とみられる秀吉の朱印状には、配下の堀尾吉晴や山内一豊といった武将たちに「大仏殿仏之材木」を調達するよう命じていた。また、奈良の興福寺の僧・多聞院英俊の1589年4月7日の日記に「大仏見事出来」と書かれていることから、萩原さんは「仏師を呼び集めてから、10カ月ほどで大仏を完成させていた可能性が高い」とみる。 当時の史料には「木ヲ以テ骨トナシ、其上ヲシツクイニテ塗タリ、其上ヲ漆ニテヌリテ、金薄悉押ス」とあることから、大仏は青銅ではなく、「木造乾漆造り黒漆塗り金箔(きんぱく)押し」の像だったようだ。 「製作に1年足らずというのは信じられないほどの短期間。秀吉と秀長が政権のステータスシンボルともいえるこの像の建立に、非常なスピード感を持って臨んでいたことがわかる」と萩原さんは話す。 ちなみに鋳造だった聖武天皇勅願の東大寺の大仏は像の完成に3年かかった。現代の例ではあるが、日本最大の木造座像といわれる福岡市の東長寺の「福岡大仏」(高さ10.8メートル)は1992年の完成までに4年かかっている。 豊臣兄弟の大仏が木造乾漆造り金箔押しという工法を採った理由について萩原さんは「鋳造よりも大幅に工期と経費を短縮できたからだろう。表面さえ金箔でコーティングすれば黄金の大仏ができあがる。映え重視、タイパ重視の秀吉らしい発想だ」と語る。 大きさも飛び抜けていた。「新大仏殿地鎮自記」には、大仏は後背をまとって蓮華の台座に据えられた釈迦如来で、西向きを正面とし、首より上の顔の部分だけで「二丈余」(約6メートル)にも及んだと記す。 萩原さんは「顔だけで6メー…この記事は有料記事です。残り654文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人宮代栄一編集委員|歴史・考古学担当専門・関心分野歴史、考古学、文化財関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする












