ストーリー寺領没収、進む荒廃 飛鳥寺住職の父が巻き込まれた「廃仏毀釈」の波塚本和人印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする
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第3部「飛鳥寺(近現代)編」(4) 奈良県明日香村飛鳥の飛鳥寺(安居院(あんごいん))を再興させた山本雨宝(1903~88)の父、丸山貫長(かんちょう)は、江戸時代末期の天保14年12月(1844年1月)、信濃国安曇郡熊倉村(現・長野県安曇野市豊科高家)に生まれた。ペリーの黒船が浦賀沖に来航する約10年前にあたる。 貫長の孫で、雨宝のおいにあたる弥勒寺(奈良県大和高田市土庫)の住職・伊藤教純さん(83)は、祖父がたどった人生を調べてきた。 伊藤さんによれば、貫長は幼いころから書や絵画などの芸術の才能に恵まれ、8歳のころまでにその書画は専門家の域に達していたという。 安政5(1858)年、真言宗豊山派総本山の長谷寺(はせでら)(奈良県桜井市初瀬)の末寺で、丸山家の菩提(ぼだい)寺だった満願寺(安曇野市)で得度。同寺での3年間の修行を経て、18歳で長谷寺に入った。それから13年間、長谷寺で修行したそうだ。 明治に入ると、政府の神仏分離令に伴い、仏教を排斥する「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」の運動が激化した。奈良の仏教界も巻き込まれ、寺院や仏像の破壊など大きな打撃を受けた。 貫長は明治7(1874)年、長谷寺仁王門手前の塔頭(たっちゅう)・普門院(ふもんいん)の住職に任じられた。30歳を過ぎて初めて住職となり、一般の人たちに仏法を説き、信徒を増やす仕事に就いたのである。 この時期の貫長の仕事で注目…この記事は有料記事です。残り890文字有料会員になると続きをお読みいただけます。※無料期間中に解約した場合、料金はかかりませんこの記事を書いた人塚本和人橿原支局長|寺社・文化財専門・関心分野歴史、考古学、外交、国際関係関連トピック・ジャンルジャンル印刷するメールでシェアするFacebookでシェアする







