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芝居町として知られる大阪・道頓堀で、上方の歌舞伎文化を支えてきた大阪松竹座が、26日の公演をもって103年の歴史に幕を下ろします。歌舞伎だけでなく、松竹新喜劇やOSK日本歌劇団、アイドル主演の舞台など、さまざまな公演で人々の心を豊かにしてきました。そんな大阪松竹座の最後の1日を詳報します。21:00支配人あいさつ 集まった人から「おおきに!」の声【動画】千秋楽を終え、あいさつをする支配人=木子慎太郎撮影【動画】大阪松竹座の最後を見ようと訪れた多くの人たち=木子慎太郎撮影 夜の部の客が全て退場した後、正面入り口前では秀邦彦支配人が「みなさま、本日をもちまして大阪松竹座、103年の歴史にいったん幕をおろさせて頂きます。振り返ればいつの時代も主役はお客様でした。長きにわたり、大阪松竹座をご愛顧賜り、従業員一同、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました」とあいさつ。一礼して、劇場内に姿を消した。閉まっていくシャッターを前に、集まった人たちからは「松竹座ー!!」「おおきに!」「ありがとう!!」などと大声が次々と上がり、最後は拍手で包まれた。20:50「新たな劇場できてほしい」 京都から訪れた東京出身の男性(76)は、幼い頃から半世紀以上にわたって歌舞伎を見てきたといい、「仁左衛門さんの若い頃から追いかけてきました。今日はがんばっている姿を見て、(涙が)ほろっとした。最後は東西の役者がそろって名場面を見せてくれて、昔見たものを思い出した。良い思い出になりました」と感慨深げに振り返った。 同行した芸妓の女性(23)は舞妓だった15歳の頃から、大阪松竹座に親しんできたという。「思い出深い上方歌舞伎がなくなってしまうのが寂しくて、かなしおす。一刻も早く、新たな劇場が大阪にできてほしい」と話した。20:30最後の演目で仁左衛門さんあいさつ 最後の演目が終わると、舞台上に人間国宝の片岡仁左衛門さん(82)ら俳優陣がずらりと並んだ。 「とうとうこの時間を迎えることになりました」と、静かな口調で語り始めた仁左衛門さん。「私に限らず多くの人が驚かれたと思うんですが、あまりの高額の入場券……」とジョークを飛ばすと、客席から大きな笑いが巻き起こった。 続けて「連日大入りがかないました。道頓堀における松竹座の底力を改めて感じることができました」と述べると、客席から拍手がわき起こった。 仁左衛門さんは言葉に力を込めて、「決して今日で終わったわけではございません。必ずもう一度、この道頓堀に松竹座の櫓(やぐら)が上がることを私たちは確信しております」と宣言。会場は万雷の拍手に包まれた。 大阪締めで幕が下りた後、客席は総立ちになった。19:30目の前のたこ焼き店が横断幕 大阪松竹座の目の前にあるたこ焼き店「くくる本店」では、午後7時半ごろから店員たちが店の前に立ち、約20分間にわたって、「ありがとう、松竹座 また逢う日まで」などと書かれた横断幕と、「芝居の灯は、消しまへん。」と書かれたポスターを掲げた。 桑田星奈店長によると、大阪松竹座と打ち合わせがあったわけではなく、自社で企画したという。「松竹さんとくくるの関係は深い。目の前にあって、芝居を見たお客さんがその足でうちに食べに来てくれた。セットで楽しんでもらった歴史があった。惜しむ気持ちを表したい」と語った。 横断幕を見た通行人らからは、「松竹、今日で終わりなん!?」「くくるさん、ありがとう」などと声が上がった。【動画】夜の部に入場する観客ら=木子慎太郎撮影【動画】昼の部の公演が終わり、退場する観客ら=木子慎太郎撮影大阪松竹座の歩み⑤船乗り込みが風物詩に 江戸時代、京都や江戸から大坂・道頓堀の芝居小屋に出演する俳優は、華やかに飾った船に乗り、道頓堀の浜に乗り込むのがならわしだった。 昭和以降、途絶えていた「船乗り込み」が再び行われたのは1979年。歌舞伎人気を盛り上げようと発足した民間団体「関西で歌舞伎を育てる会(現、関西・歌舞伎を愛する会)」が、道頓堀の朝日座で第1回公演を開く際に、復活した。 それ以来、会が後押しする歌舞伎公演の会場は中座、大阪松竹座と移ったが、船乗り込みは引き継がれ、浪速の夏の風物詩として定着した。 大阪松竹座の閉館に伴い、恒例となっていた夏の歌舞伎公演も、今年は開かれない見通しだ。 再び、道頓堀に俳優たちを迎える人々の歓声が響く日は来るのか。ゆかりの俳優らSNS続々 大阪松竹座の閉館を前に、ゆかりの俳優らがSNSなどで思いをつづった。 「いよいよ本日が大阪松竹座の千穐楽(せんしゅうらく)です。僕にとっては学校が取り壊される感覚です。沢山(たくさん)の思い出と、学び、そして、本日も又、学びが有ると思います。千穐楽、確(しっか)り勤めて参ります」 歌舞伎俳優の片岡愛之助さんは、26日早朝、自らのオフィシャルブログにそう書き込んだ。 元OSK日本歌劇団トップスターの桜花昇(の)ぼるさんは、Xで「OSKの歴史を救って下さった母なる大阪松竹座。包まれるあたたかい空間、反響の心地好さ、檜舞台(ひのきぶたい)の厳しさ」「卒業生になってからも歴史を繋(つな)いで下さった大阪松竹座。大切な事を見直さないといけない時。そう教えて下さっているのだと。きっと生まれ変わるその時まで、精進し続けます」と決意を新たにした。 宝塚歌劇団の元男役トップスターで俳優の真琴つばささんは、インスタグラムで「あらためて建物を見上げ 細部の彫刻もゆっくり眺め… その美しさにしばし見とれていると 建物から溢(あふ)れる 人情のようなものが 私を大きく包んでくれました ありがとう ありがとう ありがとうございました!」などと記した。大阪松竹座の歩み④正面外観はそのままに演劇専門の劇場に 映画館としての大阪松竹座は1994年に閉館。97年、「道頓堀の凱旋(がいせん)門」として親しまれたネオルネサンス様式の正面外観はそのままに、演劇専門の劇場として新築再開場した。 3階席の後方からでも、花道の七三(歌舞伎で俳優が立ち止まって見得などをする重要な場所)を見ることが出来るよう配慮した設計が特徴だった。 建て替えにあたり、俳優からスタッフまで「みんなが働きやすいように」と、楽屋の配置などについて様々な要望を出したのが歌舞伎俳優の片岡仁左衛門さんだった。 2023年に大阪松竹座開場100周年を祝って行われた歌舞伎公演の取材会では、「大きく携わったものですから、やはり愛着がありますね」と話していた。作家の近藤史恵さん「もっと出来ることなかったのかな」 「歌舞伎座の怪紳士」など、歌舞伎を題材にした作品も多い大阪在住の作家、近藤史恵さんは26日、朝日新聞の取材に「とても寂しい気持ちでいっぱいです。もっと出来ることがなかったのかなと思います」と話した。大阪松竹座閉場「寂しい」 出会い減ること心配 作家の近藤史恵さん大阪松竹座の歩み③戦後は洋画・邦画の封切館 1945年の大阪大空襲で道頓堀の劇場も多くが焼失する中、奇跡的に焼け残った大阪松竹座は、この年の8月には映画興行を再開。 戦後は主に洋画・邦画の封切館として、1952年日本公開の「風と共に去りぬ」をはじめ数々の名作や大作を上映した。 写真は1977年7月、リチャード・アッテンボロー監督による戦争映画の超大作「遠すぎた橋」の公開時、劇場前で入場を待つ人たち。16:00夜の部、開場 103年の歴史を締めくくる最終公演となる夜の部の開場時刻となり、松竹座に大勢の観客が入っていった。 東京都文京区から訪れた男性(73)は、仕事で大阪に住んでいた20年ほど前にも、松竹座で歌舞伎をよく見ていたという。「松竹座がなくなるということで、本当に本当に名残惜しい。これを逃すともう機会がないので来ました。片岡仁左衛門さんなどそうそうたる面々から若手の方まで出演されるので、非常に楽しみです」と話していた。15:00「関西・歌舞伎を愛する会」代表世話人は「複雑な感じ」 昼の部が終わり、松竹座から観客が出てきた。正面入口近くには、すでに夜の部の満員御礼を知らせる看板が立っている。 関西の歌舞伎文化を盛り上げてきた「関西・歌舞伎を愛する会」代表世話人の川島靖男さんは、昼の部を見て「役者さんの熱演に、いっぱいのお客さんが大きな拍手で応えていて、一体感があった。今日初めて歌舞伎を見た方がいれば『歌舞伎ってすごいな』と思われると感じました」。 閉館の日を迎えたことに関しては「さみしいですね。本来なら『おめでとうございます』と言うんですが、複雑な感じです」と話した。 東京都杉並区から訪れた70代女性は「今日が松竹座の千秋楽だという思いで見たら、全部良かったです。特に鰯賣戀曳網(いわしうりこいのひきあみ)の中村兄弟(勘九郎さんと七之助さん)の息の合った掛け合いが良かったですね」と満足気だった。松竹座閉館は「大阪文化砂漠の象徴」 行政の関与求める歌舞伎支援者14:40隣の「はり重」も臨時営業 大阪松竹座の隣にある、幕間弁当でおなじみのすき焼き店「はり重」はこの日、本来は定休日だったところを臨時営業。X(旧ツイッター)には「最後までお隣で皆さまをお迎えすることにいたしました」とポストしていた。 このポストを見て、洋食屋「はり重グリル」に初めて来店した30代女性2人組は「オムライスがすごくおいしかったです」と笑顔を見せた。この日は推しのアイドルのぬいぐるみを持参し、閉館する松竹座をバックに最後の記念撮影をしにきた。 「応援しているなにわ男子やAぇ!groupがジュニアだったころに、松竹座でよくライブや舞台をやっていました。推したちがお世話になった青春の場所です」大阪松竹座の歩み②松竹楽劇部生徒養成所を開設 日本における本格的なレビュー劇団を目指し、松竹は1922年に松竹楽劇部生徒養成所を開設。松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)が誕生した。23年に大阪松竹座が開場すると、劇場内に養成所を置いた。 26年に大阪松竹座の開場満3周年記念に上演したレビュー「春のおどり」が大成功を収めたことで、松竹楽劇部は興行的にも安定。 34年に大阪松竹楽劇部が「大阪松竹少女歌劇団」と改称し、本拠地を千日前の大阪劇場に移すまで、「春のおどり」は大阪松竹座の人気演目となった。【動画】最終日を迎えた大阪松竹座=木子慎太郎撮影大阪松竹座の歩み①大阪初の本格的西洋式劇場として建築 大阪松竹座は1923年5月、松竹の創業者の一人、白井松次郎によって、大阪初の本格的西洋式劇場として建築された。 披露興行では、ドイツ映画「ファラオの恋」や野村芳亭監督による松竹映画「母」の上映に加え、松竹楽劇部(現在のOSK日本歌劇団)の第1回公演として「アルルの女」を上演した。 洋画の封切り上映だけでなく、新しい舞台芸術の上演も行う劇場を目指した。クラシックコンサートなども開かれ、幅広いジャンルの作品を採り上げた。10:30支配人「感無量」 開場時間となり、松竹座の前にずらりと並んだお客さんたちが建物の中に続々と入っていった。 お出迎えをしていた秀邦彦支配人は「感無量です。今日1日無事に終えられることを願っています」。大阪松竹座が閉館、新劇場の行方は 支配人「模索しているのが現状」10:10昼の部「満員御礼」の看板 大阪松竹座の正面入口の脇に…






