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殺人事件の現場に居合わせた新聞記者がいる。事件は未解決のまま39年が過ぎ、まもなく定年で会社を去る。だが、心に刺さった棘(とげ)が残る。 テーブルのコンロの上で、すき焼き鍋が煮立っていた。 兵庫県西宮市のビル2階にある編集室。 25歳だった男性記者は、先輩の男性2人と肉や野菜をつつき、瓶ビールを注いだ。土日や祝日の夜は会社で晩ご飯を囲むことが多かった。 右側のソファで42歳の先輩がたばこに火をつけ、煙をくゆらせた。 気配を感じて左斜め奥に視線を移すと、入り口側から覆面の男が音もなく近寄ってきていた。目の部分だけが開いた目出し帽をかぶっている。 誰かのいたずらか。 瞬間、乾いた轟音(ごうおん)が室内に響いた。 男の腰の辺りに、白い煙を上げる銃口が見えた。 右側の先輩が「あー」と声を上げて床に倒れた。 左側のソファにいた29歳の先輩は体を反転させて両ひざを屈し、座面に顔をうずめて「うー」とうめいた。 覆面の男はきびすを返すと、黙って編集室を出て行った。 撃たれたのは2発の散弾銃。 42歳の先輩はたばこを持つ右手と腹部に銃創を負い、重傷を負った。 29歳の先輩は左脇腹に散弾を受け、5時間後に失血死した。 1987年5月3日、憲法記念日の夜のことだ。 あれから39年が過ぎた。 犯人は今もわかっていない。 警察は殺人と殺人未遂などの容疑で捜査を進めたが、発生から15年で公訴時効になり、捜査は打ち切られた。 当時の職場には12人の記者が勤めていた。 自分たちの仕事が原因で恨みを買い、同僚が殺されたとしたら、重い十字架を背負うことになる。そんな怖さを感じていた。 事件前、無言電話がかかってくることはあった。だが、トラブルを警戒するような雰囲気はなく、編集室の入り口は深夜まで鍵をかけていなかった。 事件の3日後、東京の通信社に犯行声明文が届いた。「反日分子には極刑あるのみである」などと書かれていた。差出人は警察も把握していない団体名だった。 4カ月後、今度は名古屋の社員寮に散弾銃が撃ち込まれた。けが人はなかったが、同じ団体名の犯行声明文が再び届いた。「反日分子に安全なところはない」 相次ぐ襲撃で、動機は個人への恨みではなく、会社が標的という見方が強まった。 その後、東京の本社でも散弾銃が撃ち込まれた痕跡が見つかり、静岡の支局では時限式の爆発物が敷地内に仕掛けられた。 警察は一連の事件を広域重要事件に指定して捜査を拡大し、報道機関を狙った連続テロに対する社会の関心も高まった。 だが、犯人が明らかになることはなかった。 1987年から90年にかけて「赤報隊」の名で続いた一連の犯行は朝日新聞襲撃事件と呼ばれる。このうち死傷者が出た阪神支局襲撃事件は、来年の5月3日で発生から40年になる。 高山顕治(64)は高校時代から鉄道の写真撮影が好きで、1985年4月に写真部員として朝日新聞社に入社した。 1年後に西宮市の阪神支局に赴任し、小尻知博(当時29)、犬飼兵衛(同42)らと机を並べた。 散弾銃の発砲で小尻が死亡、犬飼が重傷を負ったとき、支局にいて撃たれなかったのは入社3年目の高山だけだった。 事件後は写真部の仕事に戻り、雲仙普賢岳の噴火災害やサッカーワールドカップの最終予選、長野冬季五輪のジャンプなどでレンズを構えた。 重傷を負った犬飼は記者に復帰し、退職後の2018年に73歳で死去した。現場に居合わせた目撃者は高山一人になった。 その高山も今月16日付で65歳の定年を迎える。 自分の書いた記事や取材が原因ではないか、どこかで虎の尾を踏んだのではないか、との思いは今もある。 朝日新聞への反感が動機だったとしても、なぜ阪神支局だったのか、答えの出ない問いが残る。 理由がわかっても、納得できるはずはない。しかし、目の前で同僚を殺されて、理由さえわからないことが悔しい。 心の奥に棘が突き刺さっている。=敬称略【動画】記者2人が殺傷された朝日新聞阪神支局襲撃事件で現場を目撃した記者が、定年を前に心境を語った=嶋田達也撮影